カルラの日々徒然

気がつけばマイナー好きになっていた

ことばのキャパシティ

年末から今月初めまで入院してました。
いわゆる精神病院。うつだったんです。
で、やはり精神的に何らかの障害を抱えた人が
大勢いました。
この人達はどこから何を背負ってここに至ったのか。
きっと入院前は私も同じ様な顔をしていたのでしょう。

病院だと時間が長く長く感じられます。
だからぼけーっとし続けることの方が難しい。
そんな中で色々な事が頭に浮かんだりしてました。
入院中からよく考えてたテーマの一つがこれなんです。

誰かに何かを伝えたり、伝えられたりする手段として
もっとも身近な伝達方法ですよね、言葉って。
それが手話やボディランゲージなど、身体を使っても
可能だし、語学を片言でもマスターすれば世界の人と
コミュニケーションがとれる。
文字だけ知っていても、まあ大抵は不自由しません。

素晴らしいことだと、素直に思います。

しかし、言葉で表せない、伝えきれないものがありますね。
「気持」というやっかいなしろものです。

それを単に個人の「表現力が乏しい」と言い切っていいのか。
はたまたボキャブラリーが少ないと蔑んでいいのか。

もちろん、本人の努力によって改善できる部分も
多々あるでしょうし、一概に答えのあるものでもありません。

でも思うのです。
この気持を正確に、そのまま伝えるとしたら・・・
という場合の、言葉のなさに驚きました。今更です、ほんと。

自分で振っておいてなんですが
これは人間が個々の生き物である限り不可能なんです。
言葉は「変換」の要素を伴います。
ある言葉をある人に発したなら
それはその人の中で再構築され、大まかな意図は伝わっても
200%ではないのです。
伝わらない何%かの部分が大切な場合もあるのに、です。

だから、辞書が存在し、できるだけ伝達に誤解がないよう
私達は言葉を「正しく」使おうとします。
この表記できないものを、私達は常に何かで補います。

音楽、ダンス、絵画、表情・・・
これらには言葉で表せない要素が多く、
人間であることを、時には忘れさせてくれます。

で、何がいいたいのか。

それがわからずにこの日記を書きました。
何を伝えたいかが、言葉にできませんでした。
辛いことほど特にそうです。
シンプルが好きな自分にとって
これほどの苦痛はありません。

心の裡は常に混沌としていて
見えないうちに一瞬で堕ちてしまう。
私にもう少し言葉があったなら。

なんか暗い内容になっちゃいましたね(^_^;。
それほど悩んじゃいませんが、
この頃、気が付くと、
言葉の限界を考えてたりします。

なぜ、そんなに気になるのか、
きっと生涯考える気がします。